ファッション界から農業へ
静岡県菊川市で、中島農園株式会社を経営する中島直人さんは、就農前はファッション業界に身を置いていました。大学卒業後、華やかな世界にあこがれて、既製服の製造・販売をするアパレル会社に就職しました。春と秋に開催されるパリ・コレクションをもとに、その年の流行を予測し製品を提案したり、顧客に勧める営業の仕事をしていました。
華やかに見える職場でしたが、自分の提案が採用されなかったり、営業の努力が認められないようなことが続き、将来に希望を持てなくなっていきます。悩んだ末、中島さんは3年後、ファッション業界を去りました。
中島さんの実家は埼玉県坂戸市にあります。布団のクリーニング店を営み、排水処理や浄化槽にEM菌(有用微生物群)を使っていました。父に新しい仕事について相談したところ、EM菌を扱う会社を紹介され、営業の仕事が決まりました。しかし就職が決まっていた2011年3月11日に東日本大震災が発生し、内定は取り消されてしまいます。そこで中島さんは各方面を調べ、EM菌は、農業関係でも広く使われていることを知りました。
長野県松本市に自然農法を研究開発している自然農法センターがあります。農業試験場を設置し、短期で農業を学べるプログラムを用意している施設です。中島さんは父親にすすめられ、半年間、そこで農業を勉強しましたが、プログラムを終えた時、すぐに農業を始めることに対して大きな不安がありました。そこで、自然農法センターの講師に、埼玉県和光市でEM菌を利用して作物を生産している農家を紹介してもらい、さらに半年間、農業を教えてもらいました。
和光市は市街地が広がり、住宅と農地が隣り合わせであるような環境です。「お世話になった農家は、作った野菜を近所の人に売っていました。自分が想像していた農業とは違っていて、これからどこでどのように農業を始めたらいいのかなど、わからないことばかりでした」。中島さんは、将来の農家としてのイメージを描くことが全くできません。
そんな中で出会ったのが、野菜くらぶの澤浦彰治社長が書いた「農業で利益を出し続ける7つのルール」という本です。そこには、農業を始めるための独立支援プログラムと、研修を受け独立した人たちの様子が紹介されていました。子どもを大学に送り届けられるぐらいの収入を目指す農業経営についても書かかれていました。「父も、双子の自分たちを私立大学に行かせてくれました。自分もそんな会社経営をする親になりたいと思っていました」と中島さん。さっそく野菜くらぶに連絡し、群馬県昭和村の農家の竹之内光昭さんと、静岡県菊川市で「やさいの樹」を経営する塚本佳子さんの農園で体験研修を受けました。
塚本さんは、当時の中島さんにとってはとてつもなく広く見えた畑でレタスの収穫をしていました。「10人ぐらいの人たちに指示を出している姿がとてもかっこよく、自分もあんな風になってみたいと思いました。その時の風景は今でも覚えています」と中島さん。やっと農業への道が拓けてきたのです。
独立までに3年間
そんな中島さんでしたが、独立支援プログラムを受け、農家として独立するまでに3年間かかりました。野菜くらぶでは、独立支援プログラムを受けるための3つの条件があります。ひとつは、就農後は野菜くらぶの生産者のメンバーとなり、生産した野菜は野菜くらぶに出荷すること。これは、独立支援プログラムは仲間づくりが目的のひとつであることと、農家が経営を成り立たせるためには、農産物の販売先を確保しなければならないからです。野菜くらぶが販売を担うことで、農家は生産に100%専念することができます。2つ目は、原則として野菜くらぶの拠点地域で就農することです。これは、農産物は収穫後の品質管理や流通拠点があることも重要で、野菜くらぶが施設投資をしている地域に就農することで、その課題もクリアーします。そして3つ目の条件が、一定額以上の貯蓄があることで、これが一番大切です。独立して農業を始めるに当たり、機械を購入したり、土地を借りたりするための資金があることは必須の条件です。
中島さんは、ひとつ目の条件はもちろん、野菜くらぶの拠点がある静岡県での就農も、問題ありませんでした。菊川市は茶畑が多く、子どもの頃から過ごした坂戸市も狭山茶の産地で、同じような風景が広がっていました。しかし、貯蓄はほとんどなかったので、独立支援プログラムを受けながら、ゼロから資金を貯えなければなりませんでした。
研修は、群馬県では竹之内さん、静岡県では塚本さんと菊川市で「弓削農園」を経営する弓削敦さんのもとで受けました。アパレル会社を辞め、登山が好きで自然の中で仕事がしたいと、農業を選んだ中島さんでしたが、パワフルにてきぱきと働く塚本さんの姿を見ているうちに、自分には無理だと思うようになります。言われるがままに作業を繰り返す日々が続き、農業を一生の仕事として考えられなくなり、自分の将来が不安に思えてきました。独立して農業に就くという決意が揺らいで固まらず、お金もたまりません。とうとう塚本さんに辞めたいとこぼしました。その時塚本さんは、「辞めるって簡単に言うけど、今までの努力を無駄にするの?もう一度考え直してみては」と言います。
中島さんはしばらく畑には行かず、図書館に通うなどしてこれからの自分の人生を考える日々が続きました。父親に相談すると、「直人がやめたいならやめてもいいよ」という言葉が返ってきましたが、電話の向こうの声はとても寂しそうでした。3週間ぐらい経った時、思い直して農作業に復帰しますが、その後も何度もやめたいと思ったことがありました。「今思い返すと、当時は自分に甘えがあったと思います。独立して農業を続けていられるのは、塚本さんからかけてもらったたくさんの言葉と、電話口の父の声が忘れられないからです」。
なんとか2年間、研修を続けた中島さんでしたが、その間に資金は目標額に届かず、3年目は竹之内さんと弓削さんの農園でアルバイトをしながらお金を貯め、2015年に独立を果たし、「中島農園株式会社」を設立しました。
頼もしい人たちに囲まれて
2026年は独立してから11年目です。冬はレタス、ブロッコリー、サニーレタス、レッドオーク、春から夏にかけてはズッキーニ、ピーマン、オクラと、順調に野菜の生産が続くまでになりました。カンボジアから7人。インドネシアから3人の技能実習生も受け入れています。「みんな日本語を覚えてくれるので作業は支障なく進みます。自分もわかりやすく簡潔に仕事内容を伝えるように心がけています」。現在は野菜くらぶ静岡のレタス部会の部会長も務めています。
しかし独立後、最初の5年間の経営は赤字続きでした。中島さんは「たくさんの人たちに支えられて今があります」と振り返ります。
中島さんが静岡で独立支援プログラムの研修に入った2013年は、掛川市の白井佑介さんが独立して「とわ」を設立した年でした。白井さんはそれまでに知り合った農家を回り、中島さんを紹介します。また、地域の体育館で開かれた、農家や地主さんが集まる総会に連れていき、地元の人たちと縁を結ぶきっかけを作ってくれました。中島さんの独立後も、農地を紹介したり、ハウスを一緒に間借りしたりします。中島さんにとって、先に静岡で独立した先輩はとても心強い存在でした。
独立してすぐの頃、台風が来襲し、レタスが全部黄色に変色してしまい、トンネルのビニールも風ではずれてしまったことがありました。「落ち込んでいた時に弓削さんが見に来てくれたんです。話しているうちに、みんな同じような状態の中、あきらめもあるけど、これから先のことを考え対策を立てていることを知りました」。中島さんは、自分一人で落ち込んでいる場合じゃないと思うようになったのです。
独立後3年目から、外国から来る技能実習生を受け入れるようになりました。作業も安定して思い通りの納得がいく品質のレタスを収穫できてきましたが、赤字が続きます。原因がわからず、野菜くらぶの澤浦社長に相談し、塚本さんと一緒に作業計画や生産状況を検討しました。そうすると売り上げに対して人件費が高かったことがわかりました。栽培面積を増やしたところ、売り上げが伸び黒字に転換し、その後、経営は徐々に回復していきました。「なぜ赤字になったのか、今はわかりますが、当時はまったく想像がつきませんでした」。独立初期に生産がうまくいかなかったことが続き、雇用した人が不安を感じ長続きせず作業が回らなかった時期がありました。そうならないように、とにかく野菜を安定的に生産して出荷する、ということに集中してしまったからかもしれません。
「今は、自分とかかわる人たちとの関係を大切にしながら、安定した品質の作物を、安定して出荷できるように経営していきたいと思っています」。特に静岡のレタス生産者は、独立支援プログラムを経て農家になった人たちばかりです。独立するということがどんなに大変なことかをわかっています。そんな人たちが同じ立場で助け合っていることが、中島さんにとってはとても大きな力になっています。
また、みんなが子供を育てながら農作業に取り組んでいる姿を、大変だなあと見ていましたが、自分も親になった時、同じように自分の時間が無くなってしまい、戸惑いを感じました。しかし、いつも生き生きと何かにチャレンジしている姿を子どもに見せて、あこがれられるようなかっこいい農家であり続けたいと思っています。



























