情熱!農業人独立ストーリー 独立支援プログラム先輩たちの道のり7 第12期生 山田孝達物語「耕した夢を叶えて」

独立2年足らずで、「百年に一度」の試練に遭遇

妻・総代さんと。たった1棟残ったビニールハウスの前で。
畑の隣に牛舎があることから「牛舎」と名付けた、育苗場のビニールハウスを再建する山田夫妻。
ビニールハウスを出る前には、迷い込んだ雀などがいないかをチェック。「熱で死んじゃうんですよ。かわいそうでしょ」

「これが農業というものか!と思いましたねえ」

それは、2014年(平成26年)2月14~16日の大雪のことです。

「夜中まで雪かきしてましたが、これ以上ここにいては危ないと慌てて帰ったのですが、それにしてもまさかここまで積もるかというほどの雪でした」

朝日が差すのを待ちかねて畑に向かった山田さんの目に映ったのは、11棟あったビニールハウスがわずか2棟になった風景。しかも、そのうち1棟は山田さんの目の前で音を立てて崩れ落ちたといいます。

しかし、「農業なんて、やめておけばよかった…とは、全く思わなかった」と、山田さんはいいます。

「洗礼を受けたというか…。研修が終わってから2年近くかけて築いてきたのに、また振り出しにもどるのかって、かなり落ち込みました。次に同じようなことが起きそうなときは、とにかくビニールを外して帰るということを覚えましたから。といっても百年に一度なら、次を経験することはないですね(笑)」

そんな山田さんが農業に興味をもったのは、仕事を通じて美味い野菜に出会った時です。

「世の中にこんなにうまい野菜があるのか! と、驚きました。自分が作った野菜で人を喜ばせることができたら良いなと思ったのは」


「農業をするために」30歳で“八百屋”に転職

はじめて東京・池袋の「新農業人フェア」へ。

「そこで、農業で独立するには資金と“販路”が必要だということを知ったんです」

魚の流通なら今までの経験があるが、野菜となると…。山田さんはさらにあと5年、資金作りと販路作りのために野菜を扱う仕事をしようと思い転職を決意。2年間、八百屋さんに務めたあと、スーパーマーケットで3年のつもりが、4年半勤務。そして、再び新農業人フェアへ。2010(平成22)年9月、いよいよ野菜くらぶとの本格的な出会いが始まります。


38歳。・独立支援プログラムに応募

「『野菜くらぶ』のブースには立ち寄ったのですが、あまりにも人がいっぱいで通り過ぎた感じ。話は聞けそうにないかなと思ったんです」

ところが、フェアが終わる寸前にもう一度ブースに向かったといいます。そこでようやく澤浦彰治社長と話をすることができた山田さんは、翌月から昭和村でのプレ研修に通い始めることになります。

プレ研修? 野菜くらぶでは、話がまとまればすぐにでも昭和村で研修に入るというのが前例では? 

「子持ちで独立支援に応募したのが、私が初めてだったということが大きな理由だったと思います」

このとき山田さんはすでに38歳。募集要項に年齢制限は設けていませんが、独立支援プログラム史上最高齢(?)の応募者でした。

山田さんの熱い思いは伝わって来るが、農業は初めてで、家族もいます。野菜くらぶとしても、「失敗はさせられない」という思いが大きかったのです。


前代未聞のプレゼンテーション
「もしも山田孝達が野菜くらぶに入れたら」

2011(平成23)年1月、野菜くらぶでは、山田さんを独立支援生として受け入れるかどうかを決める役員会を開催。山田さんはその場で「もしも山田孝達が野菜くらぶに入れたら」をテーマに10分間のプレゼンテーションをしたといいます。

「また食べたいと思える野菜を作りたかったんです。だから、おいしい野菜を作るのはもちろんだけれど、“山田孝達が作った野菜だから買いたい”といってもらえる野菜を作って売りたいというようなことを話しました」

4月1日から野菜くらぶの独立支援12期生として本研修に入ることになりました。

「縁もゆかりもない土地でしたが、皆に親切にして頂きました。本当に感謝しています」

折りしも東日本大震災と重なり、世の中が慌ただしい時期でした。

「私はまだ、何も始めていなかったのでこれといった被害はありませんでしたから、実感はないのですが…」

契約生産が中心の野菜くらぶでも、出荷制限や風評被害などによる損害は少なくありませんでした。それでも、いつもどおりに黙々と、そして悠然と仕事を続ける野菜くらぶの人たち。そこには、のちの雪害の際にも感じた「農業の本質」というべきものがあったといいます。


信頼でつながる野菜くらぶの輪の中で

関口さんには、ほんとに敬語だ!一本前の電話とは言葉遣いが違う!
師匠・関口陽介さん(右)の畑を訪ねて
うーん、関口さんとこはポールの建て方ひとつからして違う!
ちょっとした違いに次から次へと気づき、師匠を質問責めにする山田さん(右)

昭和村での朝穫りキャベツの研修を終えた11月初旬。いよいよ、独立に際しての具体的な話し合いが始まりました。

「最初は、青森でレタス栽培するつもりだったんです。でも自分には家族でできる作物が良いかなと思い、考えが変わってきていました」

そこで野菜くらぶ提案されたのが「ニラ」。

野菜くらぶでニラといえば、前橋地区の関口陽介さん。昭和村から前橋へと居を移し、最後の研修に入りました。

「関口さんは、私よりも年下なんですけど、話すときは敬語。本当に尊敬する先生だから自然にそうなります。わからないことがあればなんでも聞きます」

独立した今でもたびたび会いに行き、電話してはあれこれ教えてもらっているという山田さん。独立支援プログラムのいいところは、みんなが応援してくれる、もったいぶらずに教えてくれる先輩がいるということだといいます。

「農業って経験がモノを言うと思います。経験があれば、何かありそうな時にいち早く手を打てるし、何かが起きてしまっても元の戻すのも早い。関口さんの畑はまさにそんな畑なんです」

「しんどい」ときには、人の畑を見に行くという山田さん。

「先週、パイプハウス建設中にケガをしたんですが、夕方、子どもを連れて関口さんの畑に散歩に行ったんです。そうしたら、急に元気になってきましてね(笑)。師匠に出会えてほんとうによかったと改めて思いました」

「山田さんはすごく素直で、教えたら教えたとおりにやってくれるんです。そういう人は意外に少ないんですよ。だから、そんな希少な人に出し惜しみなんかできませんよね。私たちにとっても山田さんは、思いを同じくして野菜作りをできるすばらしい仲間なんです」と、師匠の関口さん。山田さんは師匠にとっても、とてもかわいい弟子のようです。


70歳までは前橋でニラを作り続けます!

「山田孝達が作っているニラ」です!
2枚合わせて借りたことから「合わせ」と名付けられた畑にて

「70歳までは前橋でニラ作りを続けるのが目標です。そのあとは秋田か青森で、何か新しいことにチャレンジしてみたいですね」

当面の課題は「休みを取ること」だともいう山田さん。

「好きなことをやっているので、休みがなくても平気なんですけど、人事の経験からいえば休むことも仕事のうちなんですよね」

ビジネスマン時代も今も休むということには縁遠い生活。ましてや今は経営者。好きで始めた仕事を、自分の裁量で切り盛りできるのですから、休みたくないというのが本音のようです。でも、個人経営の農家が名ばかりの休日ではなく、しっかり休日を取るためのシステムを作り上げる…それも山田さんの使命なのかもしれません。

※野菜くらぶも、毎回出展しています。興味がある方はふるってご参加してください!お待ちしております。新たな人生の出会いがありますよ。
http://shin-nougyoujin.hatalike.jp/



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