情熱!農業人独立ストーリー 独立支援プログラム先輩たちの道のり7 第14期生 牛久保智史物語「“雇われない”生き方をめざして」

「自分で何かをしたい!」と勢いで退職

「草取りがなかなか思うようにできていなくて、見せるのやだなあ…。先週ならよかったのに」と牛久保さん(確かに)

「農業をやりたいわけじゃなかったんです」

農家の長男として生まれながら、友人が社長を務める小さな食品工場で働いていた牛久保さんが、会社員をやめようと思ったのは30歳になったときでした。

「勤め人の不満が大きくなっていたというのか…普通なら、次の準備をしてやめるでしょ? でも、本当に勢いでやめてしまったんです(苦笑)。」

与えられた仕事だけをして定時で帰るというのはどうも性に合わない。しかし、率先してがんばると責任ばかりが膨らみ、つい周りの人と比べて自分が損をしている気分になる…。

「さぼりたい自分と働くのが大好きな自分がいるんです。だから、自分に厳しい分、人にも厳しくなりすぎて…」

そういう状況に嫌気がさして、人に雇われるよりも自分で何かをしたい! という漠然とした思いだけを抱いて退職してしまったのだといいます。

「貯金が減ってくると、どんどん心細くなってくるんです。でも、アルバイトだけは絶対やっちゃいけない。それをしたら今までと同じだという思いがあって、意地でも働きに行く気にはなれませんでした」

勢いで辞めてしまったわりには、簡単に音をあげることもなく、「自分がしたいことは何か」ということにストイックに向き合う日々が半年続いたといいます。


失敗の中で芽生えてきた農業への想い

「そうこうするうちに、ブロッコリーの作付けの時期になったんです。うちは米・麦農家なのですが、幸いにも祖父が残してくれた土地とトラクターがあったので、当座しのぎになるかなあと始めてみたんです。3カ月で100万円くらいの売り上げにはなるかなあと思っていたのですが…」

農作業自体が嫌いとか、苦手というわけではなく、会社員時代も農繁期には父母の手伝いをしていた牛久保さんですが、終わってみると6カ月で30万円の売り上げにしかならなかったといいます。

「あの年は寒さで育たなかったこともあったのですが、当時はその理由さえもわからない。わからないのに、人に教えを乞うこともしない。そんなヤツに神様はほほえまないんです」

しかし、失敗にもかかわらず牛久保さんのなかには何かが芽生え始めていたといいます。

「1年近く経ってできたことは農業だけだったんですよね。これじゃあ2年経っても、3年経ってもできるのは農業だけなんじゃないか? だったら、農業をやろう! って思ったんです」

牛久保さんは、失敗の中で生まれて初めて「農業」に向き合い始めたといいます。しかし、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)が大きく取り上げられるなか、農業を取り巻く未来を考えると、暗いことばかり。いざ農業を仕事にすると考えると、あれがダメ、これがダメというデメリットしか浮かんできませんでした。

「うちは農家ですが、米と麦しか作っていないので、野菜の設備はないんです。しかも、自分みたいに栽培技術がないと、作りやすい時期にしか作れないから、結局安いときにしか出荷できない。契約栽培をすればよいのでしょうが、どうすればそんな顧客が見つかるのかもわからない」

農業を仕事にすると決めたはいいが、八方塞がり。これといった解決策もなく、暗闇の中でもがくような状況だっといいます。

「そんなとき勤めていた会社の社長から、定期的に開いている社長同士の勉強会で、農業法人の社長が講演するから来てみないか? と誘われたんです」


一筋の光となった澤浦彰治との出会い

その農業法人の社長こそ、われらが野菜くらぶの代表取締役・澤浦彰治でした。

「まさに暗闇に光が差したと思った瞬間でした」

 講演会の翌日には独立支援について問い合わせの電話をしたといいます。

「ちょうど10月の末で、1月まで待ってほしい。1月に『新農業人フェア』※というのが池袋であるからそこに来てみてはどうかということだったので、この際だから1月までほかの農業法人もあたってじっくり考えることにしました」

 実のところ、昭和村かあ…遠いなあ。近くで同じようなことやってる人いないかなあというの思いがあったといいます。

「近くで同じようなことやっている農業法人訪ねたりもしたのですが、ほとんどは農協と同じシステムなんですよね」

ここまできたら3か月や半年は同じと、1月の「新農業人フェア」まで待ち、そこで3月に昭和村で話を詰めることが決定したといいます。


何がわからないのかが、わからない!

1年3か月の「プー太郎」を経て、2012(平成24)年4月からいよいよ研修に入ることが決定。入寮して、昭和村の農家を転々としながら農作業を手伝う日々が始まりました。

「仕事は、従業員として『これやって』『あれやって』といわれることをやるだけです。野菜くらぶだからといって、一から十まで手取り足取り教えてくれるわけではありません」

独立支援プログラムとは、農家は一企業であり、その経営者になるための研修です。経営者に何より必要なものは「自ら考え、自ら切り拓く」自主性。それは誰かが授けてくれるものではなく、自ら身につける以外はありません。

「みなさん、わからないことを尋ねればなんでも教えてくれます。これって、普通ありえないことなんです。相場で出荷している農家なら、自分の作物だけよくできれば高く売れるんですから、成功の秘訣なんて教えてくれるわけがありません。だから、毎日、自分がわからないことは何か? 自分はどうすればいいのか? って考えるんです。それで、手伝っているところはもちろんですが、何か質問をしたい、一つでも教わりたいと、仕事が終わってからよその全然関係ない畑まで車を走らせて見に行っては、状況を観察したり。でも、すでに管理されている畑を見るだけ。何が問題なのかがさっぱりわからないんです」


実地に勝る研修なし! 早々に独立したけれど

それでも、竹之内信一さん、尾池純一さん、加藤昇さん、野元悠太さんらの畑を手伝い、レタス、キャベツ、ブロッコリー、とうもろこし、ほうれん草、白菜、なすなどについて一通り学び終わったある日、

「半年ほど過ぎたころだったかな、澤浦社長に牛久保さんちは土地もあるし、いつでも始められるでしょ。実地に勝る研修はないよって言われて、早々に独立が決まりました」

独立支援プログラムに応募する多くの人は裸一貫で農業を始めようという人たち。通常1年から1年半程度の研修期間を設け、じっくりと農業と向き合い、それからいよいよ独立となります。しかし、決まったカリキュラムがあるのではなく、人それぞれの状況に合わせてフレキシブルに対応できるのも、野菜くらぶの独立支援プログラムよいところです。

「確かに独立したからこそわかったことがいっぱいあります。あのとき言っていたことはこういうことか! って。そういう意味では、早くに独立を促してくれたことに、とても感謝しています」

栽培品目は夏はなす、冬はほうれん草を中心にすることに。ただ、いざ本当に独立しようとすると、ことはそう簡単ではありませんでした。

「土地はあるのですが、ほとんどをある農業法人に信託していて、契約期間中はその土地は米と麦以外を作ってはいけないということが判明したんです。こんなに土地はあるのに、自分のなすを植える畑がない! 機械一つを買うにもそのもとになる土地がなければ補助金の申請などはできないということが、独立して初めてわかりました」

しかし、さすがは地元。牛久保さんが一所懸命に働いている姿を見ていた父母の知り合いが土地を貸してくれることになり、ようやく作付けができることに。

「ここまでに2カ月かかりました。でも、その次のなすはどこに植えればいいんだ⁉ と次から次へと問題が出てくるんです。しかも、品質に納得のできないものしかできない…」

そんななか初めて迎えた夏には、植えたなすがどんどん枯れるという事態に。

「土壌に微生物が少なく有機肥料がうまく分解されないのが原因じゃないかということはわかったんです。でも、菌を入れて…なんて待っていられない。しょうがなく化成肥料をいれたら1か月で復活したのですが、そんなものを作りたいわけじゃないんです、本当は」


農薬の分量を間違え、凹んで迎えた結納の日

中古でも200万円以上したという包装機

独立した年には、農薬の分量を間違えて散布してしまうという失敗も。

「2000倍で撒かないといけないところを、1000倍で撒いてしまったんです。明日は結納という日で、夜まで農薬を撒いて、その散布状況を送るために書類を書いている途中で気が付いたんです。朝いちばんで連絡をしたのですが、残留農薬検査でひっかかり出荷不能に。結納の間中、ずっと凹んでいました」

最初の1年はブロッコリーの失敗がトラウマのようについて回り、自分に自信が持てなかったという牛久保さんですが、すでに独立2年。その間には、失業中もずっとついてきてくれたという女性を妻に迎え、今年は子どもも誕生。200万円以上する包装機を含めて、1000万円近い借入をしたといいます。

「1000万円ですからね。ハンコを押すときは、押していいのかなと迷いましたよ。5年間は据え置きで、12年かけて返済すればよいのですが、すでに2年。5年なんてあっという間ですよね」


従業員を雇用できる規模に

シルバー人材センターから派遣で来てくれる根岸千明さんと、ほうれん草の仕分け
包装がすんだら、いざ集荷場へ!

1年目は苦労が多かったものの、2年目は収穫量も増え、その分売り上げも増えたといいます。「作物の品質や畑の管理は、まだまだ改善しないといけないことが山積みですが」と言いながらも、「雇われない」生き方を実現した牛久保さん。次の目標はどこに置いているのでしょうか。

「最初は、家族もあてにせず、一人でやれればいいと思っていたのですが、やはり一人きりではたいへんで、パートタイマーさんをお願いしなければならない状況です。それなら安定的に人を雇用できる規模にまでもっていきたいと思っています」

雇われる側から、雇う側へ。経営者としての目線を生かすのはこれからです。

※野菜くらぶも、毎回出展しています。興味がある方はふるってご参加してください!お待ちしております。新たな人生の出会いがありますよ。
http://shin-nougyoujin.hatalike.jp/



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