情熱!農業人独立ストーリー 独立支援プログラム先輩たちの道のり5 第6期生・野元悠太物語「軽やかに農業」

小学生でパトカーにお世話に‥‥!?

広青空の下での農作業は最高!
とれたての瑞々しい小松菜

実にさわやかな人です。気負いなく、さりげなく軽やかに、農業を楽しんでいる。そう見えるのですが、しかし農業に厳しいご時世にそれを選んだ限り、楽々とは生きていないはずです。それは、少ない自己資金で独立したことからも容易に想像できるのですが、「まあ、楽天的にできてるんです」という野元さんに、どうも”苦労”の二文字は似合いません。

今年(2011年)独立3年目を迎えた野元さんは、赤城山麓の南斜面、前橋市の郊外に広がる市街地で、ほうれん草と小松菜を栽培しています。1980年生まれ、父親が大学の教員だったことから各地を転々としましたが、物心ついたときは岐阜市内在住。やんちゃな少年時代を過ごしたようです。「通知表にはいつも『落ち着きがない』と書かれていましたね。興味を持つと何も見えなくなる。それで迷子になり、小学校のときには何回もパトカーのお世話になったくらい」。ファミコンも人気でしたが買ってもらえず、もっぱら虫を追いかけたり川の淵に飛び込んだりと、典型的な田舎の子供として育ちました。

中学では陸上、高校ではテニスとギターに打ち込み、卒業後は北海道大学農学部へ。ここで深川知久さん(独立支援第5期生→深川物語)と知り合います。「単に北海道に行きたかったんですが、楽しかったですね。冬、宗谷岬のモニュメントの下で麻雀やったり、20人くらいでヒッチハイクして支笏湖に行ったりなど、自分たちで 作業場は年間契約しています 考えて遊ぶのがおもしろかった!」。学業のほうは、農学部といっても応用生命科学専攻なので畑に出ることはなく、研究室で顕微鏡をのぞく日々。畑に出る学生をうらやましく思いつつも、大学院まで行っています。


「おもしろい人がいるんだけど、遊びに行かない?」

卒業後、長野の食品メーカーに就職。品質管理の仕事に就き、糖度や酸度などの分析業務や新商品開発などにも携わっていました。さぞかし白衣が似合っていたことでしょうが、3年ほど経ったある日、深川さんからかかってきた1本の電話が、野元さんの人生を変えます。「おもしろい人がいるんだけど、遊びに行かない?」。深川さんは澤浦社長の講演を聞いていました。仕事のかたわら野菜くらぶに通うようになった2人は、矢口岳夫さん(独立支援第3期生→矢口物語)のもとで農業を体験したり、収穫祭に参加したり。そのうちに澤浦社長に「いつ来るの?」と問われ、「じゃあ、年明けにでも‥」。

「なんか、流れですよね。強烈なモチベーションがあったわけじゃなく、ちょっとやってみようかなという気分」だったと言う野元さんです。ですが、「農業って単純に肉体労働だと思っていましたが、天候を読んだり、播種(種まき)計画を立てたり、隣の畑に気を遣ったり、アクシデントに対応したりと、頭も体も心もけっこうフルに使うんですよ。疲れるけど、全身を使ってスカッとした!」。このとき、野元さん26歳。まだ無理もきく年齢での転職でした。


1農家として独立したものの、政権交代で半年待ち

このトラクターも補助金で購入
ほとんどの農機具に補助金名が

その後、澤浦社長の個人会社であるグリンリーフで3年間の研修。途中静岡や青森、近隣の農家などでも研修を積み、播種のタイミング、収穫の方法など農作業の知識と体験を蓄えました。その間の住まいは、野菜くらぶの宿舎やアパートをルームシェア。「しんどかったけど、一度もやめたいとは思いませんでしたね」。

しかし困難は、独立しようとしたときに訪れました。あまり自己資金のなかった野元さんは、法人化せず1農家として独立する道を選びました。資金のほとんどを補助金や融資でまかなうつもりで、「新規就農定着促進事業と、無利子・無担保で借りられる就農施設等資金で合計1200万円。大量の書類と毎日格闘し、県庁でプレゼンテーションまでしたんですよ」。申請の準備に2カ月。やっと書類が整った、その直後でした。なんと政権交代 ! 申請を扱う事業自体に、ストップがかけられてしまいました。

しかし土地を借りる申請を出し農家となってしまったため、ほかの仕事にも就けず、野元さんは無収入に。「でも必ずお金は入ると信じて」種や肥料をツケで買い、機械を借りて細々と農業をスタートさせました。ゴーサインが出たのは半年後、2月末になっていました。書類を一から整え直し、再申請。「役所は期限が決められるし、何もかもギリギリでけっこうヒヤヒヤしましたよ。でも農業普及 トラックは借金して買いました 所の方とか野菜くらぶの方たち、ほかにも数え上げればキリがないほどたくさんの人に支えられた。結果的に認可されたのだから僕はラッキーです。”死ななきゃ勝ち”と思ってるところ、ありますね」。ここが野元さんの強みです。


放射能騒ぎで1ヶ月無収入。再々スタートしたものの…

波乱の就農でしたが、必要な機械や資材をそろえ、本格的に再スタートを切ります。「ほうれん草や小松菜など葉物野菜のいいところは、成長が早く、短期間で現金にできるところです。ここは雪が少ないので、年間を通して出荷できるのもありがたい」。最初の年ですからさまざま試行錯誤を重ねましたが、経営的にも軌道に乗り始めました。今年の春には社員を入れようと考えていたその矢先‥‥今度は震災です。それに続く原子力発電所の事故、放射能汚染が、歩き始めたばかりの野元さんを襲いました。

「数値が超えて、ほうれん草が出荷停止になってしまって。停止は2週間で解除されたのですが、その後もしばらくは注文がなく、影響をもろに受けました」。新たに植えるのも片付けるのもいけないという状態で、まったく見通しがたたず、結局1ヶ月以上仕事が止まり、その間は無収入だったといいます。それだけではありません。再々スタートを切り、何とか収入につながるようになってきた頃に、今度はなんと台風15号です。全国に甚大な被害を及ぼしたこの台風は、野元さんの畑近くの川を氾濫させ、畑はほとんどが水没。大量に運ばれた川砂が、9月の今も畑に残ります。


目標はあるけど、”自然体でがんばる”

畑にはまだ台風の爪痕が
きっちり始末をしておかないと

畑で撮影していると、すぐ近くを電車が通過しました。野元さんの畑の多くは市街地にあります。「いろいろ気を遣うんですよ。もし畑にかけてあるネットなどが飛んで電車にかかりでもしたら大変ですし、アパートもあるでしょ。午後5時以降や日曜は仕事をしないでとか、虫を出さないでと頼まれることもあるし、大きな音を出す2トントラックやトラクターを使うときもけっこう気を配ります」。そう話しつつ、野元さんはさりげなく農作業を進めていきます。

現在借りている畑は2町6反。目標はこれを年4回、回転させることです。独立してから効率を考えるようになったと言いますが、「続けるためにはあまりコンパクトにしてもよくなく、あえて効率を考えないこともあります。働いてくれる人のことを第一に考えると、うまくいく気がしますね。畑も同じ。生きものですからね。荒く使えば荒れてしまうので休ませます」。

そして自身についても、「がんばりまくればいいというものでもなく、体を壊さない程度に、さじ加減をみながらということでしょ 今日もさっそうと畑仕事へ うかね」。がんばらなければできない農業ですが、そこは自然相手の仕事。がんばればできる、というものでもないようです。“自然体でがんばる”。畑で自然に体が動いている野元さんを見ていて、そんな言葉が浮かびました。

'11.10 米田玲子


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