情熱!農業人独立ストーリー 独立支援プログラム先輩たちの道のり1 第1期生・山田広治物語「国際貢献から農業へ」

フィリピンで農業に目覚める

初出荷に思わずニッコリ
青森・黒石市内のレタス畑

朝採りレタスの収穫は、実に静かです。コンテナーを運ぶ人、レタスを採りコンテナーに詰める人、切り口ににじむ液を洗う人。人々がまだ夢の中にいるこの時間、作業は静かに進みます。青森県黒石市。野菜くらぶの独立支援プログラム第1期生だった山田広治さんは、ここでレタスを作っています。

山田さんは神奈川県藤沢生まれ、男ばかり4人兄弟の次男として育ちました。「湘南ボーイですね」と言うと、戸惑った様子で「ええ、まあ」。物静かな人です。しかし経歴を聞くと、なかなかに骨太。小学校から高校までは野球やブラスバンド、ハンドボールに打ち込み、「ふつうに育ってきた」という山田さんですが、ちょうど大学受験のころ歴史的事件が起きます。ベルリンの壁の崩壊です。ペレストロイカ、天安門事件、そして東西ドイツの統一。世界が大きく変わるのを目の当たりにし、青山学院大学国際政治経済学部を進学先に選びました。

特に貧しい国を援助する国際協力に興味を持った山田さんは、大学3年の春、フィリピンへのスタディツアーに参加します。ストリートチルドレン救援団体を訪問したりした3週間のうち、山田さんを強烈に惹きつけたのは、たった2~3日の農業でした。「原始的な農業で、水牛を使って畑を起こし、すきかけして、種を蒔いてという簡単な作業でしたけど、土をいじることすらがほとんど初めて。とても気持ちよかった」。農業にまったく縁のなかった山田さんが、農業のとりこになった瞬間でした。

土には不思議な力があります。時には人生さえも変える力が。帰国してからは農業関係の本を読み、農業体験がしたくて北海道に出かけ、夏の2ヵ月間、ジャガイモやニンジンの収穫や草取りのアルバイトをするなどしました。


ボツワナ共和国でニンジンを作る

頼もしい人たち
こうやって、詰めるといいよ

農業に進む決心ができないまま大学を終えた山田さんでしたが、農業をもっと知りたいと、今度は実践を学べる茨城の農業大学校へ。そこで1年近く学んだ頃、青年海外協力隊の試験に合格します。しかし農業経験のない山田さんは、宮古島にある東京農大の研修所で、9ヵ月間の農業技術研修を受けることになります。「農大の先生が作られたカリキュラムにしたがって、じっくり学ばせてもらいました」。こうして農業の理論と実践を学んだ山田さんが行ったのは、アフリカのボツワナ共和国。27歳になっていました。

ボツワナ共和国は、アフリカ南部の内陸にあります。ダイヤモンド生産がGDPの3分の1を占めるという豊かな国。しかし貧富の差が激しく、貧しい人々は水不足のなかケールやアブラナ科の野菜を作って暮らしていました。「最初の頃の主な仕事は井戸づくりの支援先を見つけることでしたが、仕事をしながら、自分で野菜のテスト栽培をしました」。地元では連作していたので、輪作をしたほうがいいと思い、いろいろな品目を試したといいます。

その中で人々が作ってくれたのは、ニンジンでした。「みんなで作ったニンジンを路上で売ったのですが、なかなか売れない。彼らにはロバ車しかなく遠くにはいけなかったので、ボクが車で遠くの町に運んで売りました」。土地に合った品目を探し、土を作り、栽培して、売り、収入を得る。ボツワナの人たちに喜ばれたのはもちろんですが、ここでの体験は、その後の山田さんの農業に大きな収穫をもたらしたようです。


帰国1ヵ月後、7キロ歩いて野菜くらぶへ

6月、沖揚平の畑
修理も自分でします

2年半後に帰国したときには、農業で生きることを決意していました。海外での有機野菜栽培にも誘われましたが、早く自分の農業をやりたいという気持ちが強く、その気持ちを受け入れてくれるところを探していました。帰国後まだ1ヵ月もたっていない2000年10月のこと、山田さんは、大阪で開かれていたファーマーズフェア(新農業人フェア)を訪れました。東京での開催はすでに終わっていたためです。

野菜くらぶのブースにひとりポツンと座っていたのは、澤浦社長でした。大阪では関東の野菜くらぶに訪れる人も少なく、2人でじっくり話せました。「そこで聞いた、社長の考え方がおもしろかったですね。自分たちで、安心安全な野菜を安定供給するシステムを作る。そのために研修生を受け入れて農法を体得させ、ほかの土地で独立させる。こういうところは、ほかになかったですよ」

澤浦社長も山田さんの可能性に期待をかけました。「中国に行くと聞いたのでのんびりしていたら、2~3日後、朝6時前ですよ。電話が鳴って、『いつ、来るの?』って」(山田さん)。早々に日程を決め、約束した当日のこと。澤浦社長によると、「待てど暮らせど来ないんですよ。雨は降ってくるし半分あきらめかけたとき、やっと来た。ところが、上から下までずぶ濡れなんです。聞けば、駅から歩いて来たって言うじゃないですか!」

野菜くらぶは赤城山の中腹にあります。利根川沿いにある最寄りの駅からの道のりは約7キロ、かなりの急坂が続きます。「坂は計算外だったけど、アフリカじゃ10キロくらいは歩くんですよ。ただ途中で道に迷い、『熊出没注意』という看板を見たときはちょっと焦りましたけど」(山田さん)。

またある農家でのこと。みかんを出したところ、山田さんは皮もむかず上からかじりつきました。「2年半も日本を離れていて、身体はアフリカのまま。浦島太郎状態で入ってくれたのが、よかったのかもしれませんね」(澤浦社長)。これらの話は、野菜くらぶの伝説となって語り継がれています。


研修と産地探し、めまぐるしい1年

翌年1月から、宮田徳彦さんのもとで研修が始まりました。資材の準備、肥料の準備、苗作り。すでにさまざまな場所、条件で農業体験をしてきた山田さんでしたが、営農という観点から農業を見つめ直すことになりました。早朝から夜まで必死に働き、栽培のノウハウを身体にしみ込ませる日々が続きました。

そして週末は毎週のように、澤浦社長と、夏と冬のレタス栽培のできる産地探しへ。朝3時に出て日帰りしたり、夕方出て1泊という強行スケジュールでした。「ほかの土地でレタスを作るなんて、そんなことできるはずがない、という人もいたんですよ。ボクも不安でしたが、社長も内心は相当に怖かったんじゃないかと思います。でも社長はぶれませんでした。ボクはその信念を信じていました」

そんな2人の想いが通じたのか、4月には青森県黒石市の沖揚平で、地元生産者の中澤昭男さんに話を聞いてもらうことができました。「でも、その後が大変だった」というのは、沖揚平の葛西龍文さんです。「みんなこの厳しい土地を開拓して、野菜を作り続けてきた人たちだからさ、そりゃ他人をそう簡単には受け入れられないわさ」。

『産地物語1』にも記したような「酸ヶ湯事件」もあり、受け入れるか受け入れないか、地元での話し合いは紛糾しました。しかし澤浦社長とともに10回近く通いつめ、中澤さん、成田さん、葛西さんなどの協力も得て、秋には土地を借りられることになりました。沖揚平の人たちは、やはりパイオニアの心を持っていました。


山背(やませ)に泣いた日々

今日のレタスは2Lサイズ
いよいよ出発だ!

平成14年、山田さんは群馬で(株)サニタスガーデンを立ち上げ、レタス栽培を始めました。一方で青森に通い、耕作放棄されていた土地を1年かけて畑にし、翌年青森に入りました。農業は野菜を育てるだけではできません。売り先と土地は確保できましたが、資材や機械を揃え、土地や作物にあった肥料・薬剤を用意して、苗を作りと仕事は山積み。初めての土地で、葛西さんなどにアドバイスをもらいながら栽培を始めました。

それでも1年目は、作付けした半分が収穫できない状態でした。「ここは何でも激しいですね。特に山背という、八甲田山から吹き下ろす風の強さが半端じゃない」。1日で終わればラッキーで、軽トラックが10メートルほど移動していたこともあるとか。そんな山田さんに試練が訪れます。収穫直前のレタスが、山背に吹かれてしまったのです。「砂まみれになるだけじゃないんです。葉っぱがボロボロになって、真っ黒になってしまい、『出荷できない』と野菜くらぶに電話しました」

一般の市場に出す野菜なら、これはとても売り物になりません。しかし野菜くらぶは、特定のお客さんとの契約栽培です。日ごろから深いお付き合いをさせていただいているハンバーガーチェーンや生協では、使える部分を引き取ってくれました。「山背に対する免疫がなかったのでもうダメかと思いましたが、素早く対処してくれた野菜くらぶのメンバーと引き取ってくれたお客さまには、本当に感謝しています」


初出荷レタスを、静岡で社長が偶然に

沖揚平の人たちの反応は、どうなのでしょう。「みんなレタスは作ってきたからさ、山田さんの畑見て『そろそろ、採っていいんでねえべか』って、オレに言うわけさ。そう言われても、困るんだけどなあ」と、葛西さん。土地の人たちも農法の違いは承知しつつ、さりげなく見守ってくれているようです。

葛西さんは、言います。「まち育ちの人が気をつけなきゃいけないのは、ちょっとしたひとこととか心遣いかな。農村ではそれでことがスムーズに動くんだよ。それとオレだけじゃなくて、ほかの人にいろいろ聞くと輪が広がっていくと思うよ」。機械の故障もすぐに修理してもらえる関東圏と異なり、機械の貸し借りや手伝いなどが日常的に行われている地域ならではのことでしょう。

まだ子供が小さい山田さんは、黒石市内に家と畑を持っていますが、そこから車で20分ほど上った沖揚平にも畑を作り、標高差を利用して春から夏のレタスを出荷しています。「住んでみると人はいいし、穏やかな気持ちで住めるところです。まさに適地適作で、無理せずにいいものが作れます。これからも群馬が厳しい時期に、いいレタスを出荷していきたいですね」

6月、初出荷のレタスを見送る山田さんの顔は、晴れ晴れとしていました。この日出荷したレタスが、数日後、静岡県掛川市のハンバーガーチェーン店で、澤浦社長らの口に入るというおまけ(※)もついて。

※http://blog.livedoor.jp/sawaurablog/archives/746436.html

■山田広治プロフィール
1971年 神奈川県藤沢市生まれ。大学時代からインド、タイ、フィリピン、ネパール、ペルーなどを回り、フィリピンで農業に目覚める。ミステリー、ギター演奏(エリッククラプトン)、ニューシネマパラダイス、深津絵里が好き。
平成12年10月 大阪ファーマーズフェアで、澤浦社長と出会う。
平成12年11月 野菜くらぶ訪問。農家、社員の人達がみんな若く活気があり、「畑」「山」「空」「雲」「空気」「風」のすばらしさに魅了される。
平成13年1月 野菜くらぶ生産者、レタス大規模栽培第一人者の、宮田徳彦農場で研修開始。
平成13年12月 研修終了。播種から収穫まで、機械の使い方、経営感覚などを学び、独立を決意。
平成14年1月 有限会社サニタスガーデン立ち上げ。昭和村の畑を借り、レタス栽培開始。
平成15年 群馬2ha、青森3haでレタスを作付け。開墾したての痩せた土壌、冷夏、強風などで、青森での一年目は作付面積の半分近くが収穫に至らず。社員1名入社。
平成16年 群馬3ha、青森4haでレタス、ブロッコリー、ハクサイを栽培。品目を増やしてリスク軽減を試みる。計画はほぼ達成。
平成17年 青森のみで営農開始。面積7ha。土作りも順調、土地に適した栽培方法への理解も深まった。数字は前年とほぼ同様だったが、手応えを強く感じられた。
'09.7 米田玲子


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