やっと見つけた秋~春の産地は、レタスの先進的な産地だった。
倒産から生まれた、感動的な産地ストーリー。
年間平均気温15-16度の温暖な地で、秋から春のレタスを作る
陽光にきらめく海から、潮の香りを含んだ心地よい風が届きます。振り返ると、家々の庭先には可憐なみかんが実り、その先には茶畑に覆われた山が連なっています。ここは静岡。この海岸から少し内陸に入ったところに、野菜くらぶの産地はあります。静岡の中でも年間平均気温15~16度という温暖な地、太平洋に突き出た御前崎のつけ根に位置する、菊川市です。
野菜くらぶがお客さまに1年を通じてレタスをお届けするため、真夏と秋から春までのレタスの産地探し始めたのは平成13年。同時に独立支援プログラムを立ち上げて農業に意欲のある若者を育て、産地で独立してもらうことで、遠隔地でも野菜くらぶの栽培方法を貫くことをめざしました。まずは青森、沖揚平の生産者の方たちの協力のもと、第1期生の山田広治さんが青森で独立し、夏のレタスの出荷が始まりました。(→「産地物語1 天上のレタスを作る人々」参照)。それを見届けたのち、秋から春のレタス産地探しが始まりました。
野菜くらぶの産地探しには、セオリーがあります。まず机の上に、地図を広げる。そして等高線などから地形を読みとり、畑のありそうなところを見つけて、現地に飛ぶ。今回はまず、九州に行きました。澤浦社長は言います。「行きはよかったんですが、帰りに距離を感じてね。やっぱり本州だ、最南端はどこかと。そしたら紀伊半島なんですね。即、車を飛ばしましたが、行ってみたら、山ばかりで畑がなくて…」)。 集出荷場は休日もなく稼働しています 四国も探しましたがやはり海を越えるのはハンディになる。どうしたものかと考えあぐねていたとき、「実はかみさんが浜松の出身で、見ればけっこうレタス畑もある。こりゃあ、静岡がいいかなと思い始めました」(澤浦社長)。
菊川は50年の歴史ある、レタスの一級産地だった
一方独立支援プログラムも2期の研修生を募集し、向山耕生(むこうやまこうき)さん(当時25歳)が採用されました。青森の山田さん同様、向山さんも2年間の青年海外協力隊から帰国した直後でした。東京の日野市出身の向山さんは子供ころからのサッカー少年で、高校時代にはインターハイにまで行きましたが、高校3年のときに福井県三国町のロシア船重油事故のボランティアを体験。「阪神大震災に遭った人たちが『お世話になったから』とボランティアをする姿を見て、人の役に立つことをしたいと思うようになりました」(向山さん)。カメラマンになる夢を持っていましたが、カメラマンはいつでもできると、日本大学の生物資源科学科国際地域開発学科に進学。大学時代は若者が運営する国際環境NGO、A SEED JAPANの活動に熱中し、インド、ベトナム、タイ、マレーシアなどアジア各国に出て、貧困を目の当たりにしました。
大学では実習授業で農業に興味を持ち、技術習得のために世田谷区の有名な有機栽培農園、大平農園に、週5日も通った時期もあったとか。卒業後この2つの経験は、海外協力という形で実を結びます。青年海外協力隊の一員として、2年間、南米パラグアイで活動することになったのです。焼畑で荒れた土地に植林したり、環境保全型農業でトマト、レタス、サトウキビなどを栽培したり、展示ほ場で堆肥やボカシを作ったり。彼らは家畜を飼い、主食や野菜を自給し、自然の恵みを受けて暮らしていました。「彼らは経済的に厳しい中でも、生きていく上で必要不可欠なものを確保している。それが幸福の源なんですよね」。向山さんはそう実感したといいます。帰国後、食のすばらしさを伝えたいと選んだのが、農業でした。
向山さんは4月から群馬で研修をしつつ、社長とともにひんぱんに静岡に出かけ、土地と静岡での研修先を探しました。そして社長の奥さんの身内を頼って探したところ、幸運なことにレタス作りの名人と呼ばれる本多利吉さんのもとで、研修を受けさせてもらえることに。本多さんは現在もJA遠州中央レタス部会の副部長も務める、静岡レタスの重鎮です。聞いてみると、本多さんの住む森町や菊川は、昔から知られた冬レタスの産地でした。 本多さん(左)と向山さん(右) 「菊川のレタスは米軍用に作られたもので、50年以上の歴史があるんですよ。アメリカから持ってきた種を、昔は1玉1玉、竹を組んで油紙で守って育てたもんです」(本多さん)。苦労の末に見つけた産地は、一級のレタスを作れる地域だったのです。
負債40億のバラ園を、レタス栽培の拠点にしようと
そのころ野菜くらぶに、ひとつの情報がもたらされました。静岡で、大規模なバラ園が売りに出ているというのです。場所は菊川市。さっそく出かけた澤浦社長と向山さんに対応したのが、杉山健一さんでした。人の縁とは不思議なものです。この杉山さんが、のちに野菜くらぶのグループ会社、(株)サングレイスの社長を務めることになります。
清水市に生まれた杉山さんは、父親の転勤で子供時代の4年間をブラジルで過ごし、彼もここで貧富の差を目の当たりにしています。神奈川大学を卒業後、ソニー系のIT企業で法人担当の営業として7年働きましたが、転勤先の大阪が気に入って移動を断り退社。友人とともにオフィス街でお弁当を売る事業を起こし、当初の1日30食を翌年には500食にまで成長させて、会社は絶好調。そんなとき叔父さんが経営していたバラ園が倒産の危機にあると知り、事業を友人に譲って帰郷します。
バラ園は、20ヘクタール(約6万坪)という広大な敷地に7ヘクタールもの建物があり、当時、施設園芸としては日本一の規模を誇るものでした。「40億円の負債があったけど、それまでの経験から販売ならてこ入れできると思いました。実際売り先を切り替えて、年間1億円の赤字を翌年には1000~2000万円に縮小できましたし」(杉山さん)。野菜くらぶが訪問したのは、そんな時でした。澤浦社長も、「借り入れは多いものの黒字になる見通しはあったし、 最初に貸してもらった土地に立つハウス 約50人の従業員もよくやっていた。再建するのもいいし、ここを拠点にレタス栽培をするのもいいと思って、買収することに決めたんです」と言います。生協でのバラの頒布会も計画し、関係者をお呼びするなど具体的に動き始めました。
理解者を得るものの、思うように土地探しは進まず…
この年の10月から向山さんは、バラ園の建物に一室を借り、本多さん宅に通い始めます。平行してレタス用の畑を探し、毎日のように役場の専門員とともに農家回り。農家を訪れ、畑を見せてもらい、土地台帳を確認するという作業は、日によっては10カ所にもおよび、少なくとも100軒の農家は訪ね歩いたといいます。「条件がピッタリで借りたいと思っても、若いし結婚もしていないから、農家は不安なんでしょうね。あるとき『社長を連れてこい』と言われて、社長に来てもらったんですが…」、社長が乗ってきたのは、沖揚平にも登場した黒塗りの高級車(といっても中古なのですが→「産地物語1 天上のレタスを作る人々」)。「あやしい感じに見られて、あのときはこれでダメになったのかも、ですね(笑い)」(向山さん)。
平成17年の年が明けたころ、向山さんには1人の理解者が現れました。稲作の大規模農家で、野菜くらぶと同じように契約栽培をしている長谷川良一さんです。一生懸命話しても反応の少ない農家が多い中、長谷川さんは話が終わるやいなや、「それだ! これからの農業はそうでなきゃいけない!」と言ってくださり、米の裏作でレタスを作るよう提案してくれました。しかし独立をめざす向山さんは、秋、、 頼りになるプロ集団。お疲れさまです 春のレタスも作らなければ採算ベースにのらないため1年を通して借りられる土地を探していました。この時点で条件に合う土地は、たったの3アール。しかし翌年には、独立しなければなりません。向山さんの心には、しだいに不安が芽生え始めました。
進まぬ土地探し、見えない未来に、不安が頂点に達した夜
少しずつ動きだし、一時はうまくいくかと思われたバラ園でしたが、結局、債権者は借金返済は無理と判断し、従業員を全員解雇して閉鎖。杉山さんも、職を追われてしまいました。バラ園に住みその一部始終を見ていた向山さんの不安は、ふくらむばかり。野菜くらぶが全面的に協力するとはいえ、独立のプレッシャーは相当なものです。資金、土地、資材、人員、段取りと、売り先以外のことはすべて自分で決断しなければならないからです。
研修と土地探しが終わって家に戻ると、土地や資金の心配が一気に押し寄せてきます。資材費を浮かせるために、レタスのトンネル用の資材を竹で自作したこともありましたが、それも焼け石に水。来る日も来る日も、人気がなく静まりかえった巨大な建物の中で、先の見えない不安な夜を過ごしていました。仲間が立ち寄り、久々に賑やかな夜を過ごした晩のことでした。急に静かになった建物の中で、向山さんは急に息苦しくなります。パニック障害。強い不安感が症状となって出る精神疾患でした。2日後、実家に戻った向山さんの治療は、その後1年にもおよびます。
一方解雇された杉山さんは、再起をかけて御前崎に移り住むことになります。
そして菊川には、誰もいなくなりました。さて、静岡農場の運命やいかに!?
向山耕生写真集
写真とは記憶の断片、
僕自身の「今」という感情の故郷。
左・インド、バラナシの露地裏にて
下・ベトナム、フエの船着場にて