産地物語 青森編 天空のレタスを作る人々1

春~夏のレタスを作るために、青森へ。

そこで出会った、標高750メートルで野菜を作る人たち。

あめ玉1個を口に入れて、街へ下る

東の空にうっすらと色がさすと、足元には雲海が広がっていました。からだを包む冷気はこれ以上ないほどに澄み切って、かなたに岩木山が頭を突き出し、雲海の下には日本海、津軽半島、青森湾が沈んでいます。午前4時、レタスの収穫に向かう生産者たちは、毎朝この光景を目にすることになります。

八甲田山の中腹、標高750メートルに、沖揚平(おきあげだいら)はあります。「もとは、『浮上平(うきあげだいら)』だったと言う説もある」と聞いて、納得しました。まさに地上に浮いているような感覚に、とらわれます。教えてくれたのは生産者のひとり、成田真理乃さん。沖揚平には昭和23年、満州や樺太からの引き揚げ者と山形からの開拓団19戸が入植しましたが、その2年前に入った先発隊の団長が、真理乃さんと葛西龍文さんの父親、葛西武弥さんでした。野菜くらぶを受け入れてくれた生産者は、開拓団の二世にあたる人たちです。

約800町歩ある沖揚平で、木を切り、土地をならし、家を建てました。出稼ぎや森林作業で収入を得つつ、4~5年を基盤づくりに費やしましたが、その間に入植者は半数になっていました。「米は配給があったから困らなかったけど、朝起きると布団の上に雪が積もっててな。よく60年がんばったと思うよ」と言うのは最高齢の生産者、中澤昭男さんです。

車のない時代、街に行くのは徒歩でした。「親が、口ん中におっきなあめ玉1個入れてくれてね。『これがなくなる頃に、街さ着くから』って。ほんとにそうだったから、驚いたね。行き3時間、帰りは8時間くらいだったな」(中澤さん)。大豆・馬鈴薯・えん麦・牧草などを作って、暮らしてきました。

高冷地野菜の沖揚平ブランド

葛西さん(左)と毛利
頼りになる中澤さん(左)
成田さんのご主人、実さん

転機が訪れたのは、昭和37年。地域整備が進められると同時に、白菜や大根などの栽培研究がスタートしたのです。750メートルという沖揚平の標高は、緯度を考慮に入れると長野の1000メートル級の山に匹敵します。毎年4メートルという雪に閉ざされる高地の野菜はミネラル豊富で日持ちがよく、冷蔵庫が一般に普及していなかった時代、夏にはとても貴重で、売れに売れました。県の高冷地野菜指定産地に認定され、レタス、ニンジン、大根、キャベツ、ブロッコリー、白菜などが、沖揚平ブランドで広まりました。

「俺らが子どもの頃は、活気があって楽しかったよ。ただ何やっても人数足りなくて、バスケットもできなかったけどね」と、昭和39年生まれの葛西龍文さんは言います。全校生徒は5~6人でしたが、子どもたちは学校で習う標準語を使っていました。「親父は青森の有機農業研究会に入っていて、何かと忙しくしていたよ。青森や神奈川の生協さんともつながりがあったしね」。野菜くらぶを受け入れてくれる素地はあったのです。

しかし十数年後、葛西さんが農業大学校を出て帰郷する頃には、景気のいい話はすでに昔話となっていました。同じ野菜を作り続けたた 葛西さんの奥さん、真理さん めに、連作障害が出たのです。「主な病気は白菜の根こぶ病でした。輪作に変えたり、抵抗力のある品種を使ったり、土地はあったから遠くに畑を作ったりしましたね」(成田真理乃さん)。その後は品目を増やすなどして、農業を続けてきました。

霧がかかり、小雨降る日に

そんな沖揚平に2人の青年が降り立ったのは、8年前。澤浦彰治社長と独立支援プログラム1期生の山田広治さんです。毎週末、澤浦社長とともに土地を探して日本中を走り回っていた、山田さんは言います。「社長がね、地図を広げて、『畑のマークがあるから、ここに絶対畑がある。行ってみよう』って言うんですよ。そんなにうまく行くわけないと思ったんですが、行ってみたら、あった」

土地を借りたいという2人に対応してくれたのが、当時町内会の副会長をしていた中澤さんでした。「霧がかかって、小雨の降る日でね。活彩館(かっさいかん)という直売所でコーヒー飲みながら話しました。住民も減っていたし、外部の人が来てくれたら少しは活性化するかと思って、いいでしょうと答えたんだ」

しかしそれからが大変でした。「なんで、群馬からここに来るんだ」「だまされるんじゃないか」という住民たちを説得してくれたのは、中澤さんご夫妻、成田さんご夫妻、葛西さんご夫妻でした。「レタスは作っていたんですよ。もっと作る余力もあったけど、売るところがなかった。その売り先を確保してくれるというし、澤浦さんと俺は同い年で、しかも同じ開拓民の息子。最初から馬が合ったね」と、葛西さんは振り返ります。

「東京の産廃業者でねえべか?」

活菜館では農産物販売も
天上のレタスをお届け!
選果場も完成しました

澤浦社長と山田さんは沖揚平に通い、話し合いのためにやっと住民を集めてもらったその日のことです。澤浦社長をはじめとする野菜くらぶの社員は、予定にかなり余裕のある時間に到着しました。「会合は6時から。時間があったので、みんなで酸ヶ湯温泉に行ったんですよ」と、毛利嘉宏取締役事業本部長。

ところが会合は、5時からの予定だったのです。農作業の都合をつけて集まった住民の方々は長時間待たされ、まさにキレる寸前。悠々と車を降りた社員たちは、勢ぞろいした地元の人たちの様子を見て事態を察知したものの、全員の体からは、酸ヶ湯温泉特有の強い硫黄の匂いが…。「それからは、とにかく、ひたすら、平謝りでした」という毛利の言葉に、「あと5分遅かったら、みんな帰ってた。そしたら、いまこうして話してないよね」と葛西さん。

多難な船出でしたが、ありがたいことに地元の方々にはご理解をいただくことができ、翌年には葛西さんがサニーレタスを出荷、2年後 おいらも仕事してるゾ には、山田さんが沖揚平でレタス栽培を始められるようになりました。こうして野菜くらぶのレタスが、青森・沖揚平で作れるようになりました。めでたし、めでたし。と、終わりたいところですが、またもや葛西さんの登場です。「いや、それからが、また大変だったのさ」

この続きは次回にゆだねましょう。乞う、ご期待!

'09.07米田玲子


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