産地物語 青森編 天空のレタスを作る人々2

春~夏のレタスを作るために、青森へ。

そこで出会った、標高750メートルで野菜を作る人たち。

東北随一の紅葉スポットがみせる、自然の牙

秋の八甲田山は、全山紅葉。白神山地、岩木山など青森には名だたる紅葉の名所がありますが、人々を魅了してやまない東北随一の紅葉スポットは、なんといっても沖揚平、酸ヶ湯温泉、奥入瀬渓谷、十和田湖のある八甲田山。9月下旬に始まる紅葉は徐々にその速度を増して、10月中旬には全山が燃えるように赤くなり、訪れる人を染めます。そうなると冬はもう、すぐそこ。冬支度に追われる生産者の気持ちが、さらに急いてきます。

その美しい自然が時には牙となって、人間に襲いかかることがあります。「八甲田雪中行軍遭難事件」。1902年、旧日本陸軍の冬季訓練で199名が死亡した事件で、八甲田山といえば誰もがこれを思い起こすことでしょう。新田次郎の小説の題材となって映画化もされ、それらによれば「北海道よりも厳しい」と言うのもうなずけます。

「みちなき径をかき分けて ふところ深い横岳の うねる樹海に斧入れる」

『去来賦』の碑
「拓農豊穣」の碑

沖揚平の人たちが、野菜くらぶを受け入れてくれた背景には、その厳しい自然を生きてきた沖揚平の歴史が関係しているようです。「みちなき径をかき分けて ふところ深い横岳の うねる樹海に斧入れる……生き抜くすべと障害も 曲折労苦ふみこえて 昇る朝日に炬(きょ)ともえる…」(『去来賦』工藤嘉一)。廃校となった沖揚平分校の敷地内に、こう刻まれた碑があります。入植30周年に建てられたものですが、戦後の十分に物資もない時代、国内有数の厳しい土地に入植した人たちの、決意と苦労のほどが伝わってきます。

そしてかたわらには、「拓農豊穣」という力強い文字の刻まれた碑も。「入植時、地図を区切って番号つけ、サイコロ降って、土地の配分を決めたんだ。各戸に6町歩(約6ha)ずつだったけど、使えるのはせいぜい2~3町歩でな。親父たちは笹を刈って火をつけて、土を肥やしてたな」と中澤昭男さんは言います。たい肥を入れたり、緑肥を試したり、沖揚平の人たちは、1年のうち半分も農作業のできない土地で、ひたすら土を作ってきました。

近くには睡蓮沼などの観光地も

土地を拓き、守ってきた人だからこその想い

冷蔵庫が普及していなかった昭和40年代、店頭に並べても1週間~10日も傷まないという沖揚平の野菜が、『八甲田高冷地野菜750』というブランドで売れ、厳しい環境が"売り"になった時期がありました。「村で組織を作り、生産、運搬、売り上げの分配もみんなで」(中澤さん)やり、また町から離れていたため生活、医療、野菜の栽培から機械の修理まで、なんでもみんなで助け合わなければ生活できませんでした。当然、地区の結束力は強いものとなりました。

しかしその後、冷蔵庫の普及、技術の発達、さらに野菜の輸入が始まると、沖揚平の野菜は厳しい状況に。野菜くらぶが訪れたのは、そんな時期でした。それまで開拓に携わった人たちで結束を強めて生きてきた人たちにとって、移住者を受け入れ、大切に守ってきた畑を見知らぬ人間に貸すというのは、大きな決断でした。話し合い の機会を何度も持ったものの、なかなか同意は得られませんでした。しかし自らの手で木を切り、畑を作り、守ってきた人々は、沖揚平の将来のことも考え、同じ想いを持って訪れた人間を受け入れてくれたのです。

最初の年は、沖揚平でレタスを作っていた葛西龍文さんが出荷、翌年には独立支援プログラム1期生だった山田広治さんが栽培を開始しました。家や畑の手当をしていただいたのは、村の人たちや葛西さんでした。「ここで農業をするなら、ここに住んでほしかったからね」(葛西さん)。しかし初めての土地、育ったところともまったく異なる環境で、出荷に耐える野菜を作るのは、並たいていのことではありません。口べたな都会の青年はひたすらレタスに集中し、毎日の作業をこなすのに必死でした。「こういう村はつき合いが大切だし、長(おさ)を中心にいろんなことが動く、"しがらみ"があるんです。よそから来た人にはそれがなかなか、わからないかもね」(成田真理乃さん)。ちょっとした言葉の不足やタイミングのずれなどで、コミュニケーションがうまく取れなかったことも多々ありました。

新しいものを受け入れる度量と、新しい取り組みに臆しない者

左から成田、中澤、成田、葛西さん
碑のある廃校となった沖揚平分校

澤浦社長と山田さんは沖揚平に通い、話し合いのためにやっと住民を集めてもらったその日のことです。澤浦社長をはじめとする野菜くらぶの社員は、予定にかなり余裕のある時間に到着しました。「会合は6時から。時間があったので、みんなで酸ヶ湯温泉に行ったんですよ」と、毛利嘉宏取締役事業本部長。

ところが会合は、5時からの予定だったのです。農作業の都合をつけて集まった住民の方々は長時間待たされ、まさにキレる寸前。悠々と車を降りた社員たちは、勢ぞろいした地元の人たちの様子を見て事態を察知したものの、全員の体からは、酸ヶ湯温泉特有の強い硫黄の匂いが…。「それからは、とにかく、ひたすら、平謝りでした」という毛利の言葉に、「あと5分遅かったら、みんな帰ってた。そしたら、いまこうして話してないよね」と葛西さん。

多難な船出でしたが、ありがたいことに地元の方々にはご理解をいただくことができ、翌年には葛西さんがサニーレタスを出荷、2年後には、山田さんが沖揚平でレタス栽培を始められるようになりました。 いつも前向きな成田真理乃さん こうして野菜くらぶのレタスが、青森・沖揚平で作れるようになりました。めでたし、めでたし。と、終わりたいところですが、またもや葛西さんの登場です。「いや、それからが、また大変だったのさ」

研修生への心配と期待…そして来年の楽しみ

秋の沖揚平から青森方面を望む。
夜景もきれいです
城ケ倉渓谷をひとまたぎする、
城ヶ倉大橋より

いま沖揚平には、独立支援プログラム3期生の矢口岳夫さんが住んでいます。「将来のことを考えたら、きちんとした家を用意しないとな」(中澤さん)という心配をしていただく一方、「結婚してここで子供を持ってもらえば、沖揚平にも子供の声が聞こえるようになるよね」(成田さん)という期待もありますが、はてさて、どうなりますことやら…乞うご期待です。

そして来年は、いま群馬で研修中の舘政育光(だてまさいくみ)さんが研修に来る予定。その話題に話がおよぶと…。

成田・マジで来るの!? 毛利・よろしくお願いします! (と、3人目の面倒を見てもらうことになる葛西さんに、ペコッと頭を下げる) 葛西・また? 畑はなんとかなっても、住むところがないよ。俺のテント、貸してやってもいいけど。 毛利・エッ!? じゃあ、とりあえず研修中は、出荷場で寝泊まりですかね。 竹内・いやぁ、あいつ、なかなか信念持ってるから、期待してるんですよ! よろしくお願いします! (と、みなさんに頭を下げる)

来年が楽しみです。

野菜を栽培する。ただそれを実現するためだけに、山のようにある課題をクリアし、多くの人たちと、何度も話し合い、ぶつかり合って、問題を解決していく。そうして初めて、食べる人たちに野菜を届けることができます。試行錯誤、波瀾万丈の日々ですが、「飽きなくていいですよ。雨降って地固まると言うからね。どんどん雨降らせてくださいよ。わたしたちはそれを、笑いの種にできるしね」という成田さんの強く、やさしい言葉に救われます。そして、こうも言ってくれました。「みんな遠巻きに見てるけど、『困ったじゃ』って相談に行けば、親切な人ばっかり。だから少し自分の殻を破ってさ、いろんな人に相談に行けばいいんでねえべがー」。ありがとうございます!

'09.11米田玲子


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