情熱!農業人独立ストーリー 独立支援プログラム先輩たちの道のり10 第15期生 白井佑介物語「農業は、食べ物がある幸せな未来を作る」

まわり道をして農業へ

白井佑介さん
トンネルのなかでじっくり育った立派なレタス

白井佑介さんは、静岡県掛川市と菊川市で、日本人の従業員や外国から来ている農業実習生と共に、約40ヘクタールの土地で野菜を栽培しています。サラリーマンの父と共働きの母のもと、農業とは全く縁のない環境で育ちましたが、さまざまな出会いと経験を経て、野菜くらぶの中でも、大規模経営者の一人となりました。

白井さんには4歳年上の兄がいました。子供の頃の二人は、祖父が庭の畑で作る野菜を食べ、山や田んぼを遊び場にしていました。兄は農業高校を卒業し就農します。白井さんは将来の進路を考えた時、兄とは別の道に進みたいと工業高校に進学し、卒業後、自動車会社に就職しました。「船酔いをするので漁業は無理です。林業は身近ではありませんでした。機械やおもちゃをいじるのが好きだったこともあり選んだ仕事です」と、話します。

10年ほどサラリーマンとして働いた時、組織の中での将来の自分の姿が見えてきました。「係長、課長と昇進していき、現場の仕事から離れていくと考えると、屋内ではなく外で働く仕事に就きたいと思い始めていました」。ちょうどその頃、リーマンショックで世界中が金融危機に陥り、自動車やその部品関係の輸出が激減し、白井さんが働いていた会社の生産量も減っていきました。

30歳を目前にし、新しいチャレンジをするなら今がラストチャンスと思い悩んでいた時、アフガニスタンで農業支援に取り組んでいた兄が銃弾に倒れ亡くなるという事件が起こりました。「日本に帰国する機会が1年に何度もなかった兄の現地での様子を、一緒に活動をしていた人たちから聞きました。その時、これからの仕事として、農業が選択肢の一つに入ったのです」。そこから、白井さんの農業への挑戦が始まりました。

たまたまの出会い

1つ1つ丁寧に作業します
トンネルからの風景

最初に相談したのは、白井さんと同じように、これからの人生をどうしようかと考えていた友人でした。一緒に農業を始めようとしましたが、何を作りどう売るか、だれに教えてもらうのかなど、一から二人で考えなければなりません。話し合っているうちに、経営に不安があり安定した暮らしができないのではと思うようになります。既に所帯を持っていた友人とスタートするには無理があると、その時はあきらめました。

その後一人で農業への道を探し、ハローワークを通し、深川知久さんが菊川市で経営する農業法人のソイルパッションを知ります。「ソイルパッションは株式会社でした。社会保険も通勤手当などの諸手当も完備していて、サラリーマンのような雇用形態に衝撃を受けました」と、白井さんは当時を振り返ります。深川さんが、野菜くらぶの独立支援プログラムの研修を受けて独立した大先輩だということを、この時は全く知りませんでした。

こうして白井さんは、2年間、ソイルパッションで従業員として働きます。「作業に出た1日目のことを、今でも忘れることができません」と言います。「一緒に働いている人たちは平然と自分の10倍ぐらいのスピードでレタスの苗を植えていきます。自分は足も腰も痛くて、本当に農業は向いていないと思いながら仕事をしていました」。数か月がたち、レタスの植え付けがすべて終わる頃、次のシーズンにはもうできないだろうなあと思っていたことしか記憶にないそうです。

それでも2年目に入ると体の使い方を覚え、同じ作業をしていても以前より楽にこなせるようになりました。そうすると余力が出てきていろいろな考えが巡ります。自分が思うような農業をしたいと、深川さんに独立を相談しました。そこで紹介されたのが野菜くらぶ。独立支援プログラムの研修へと進みます。

無我夢中、独立後の5年間

カンボジアから来た頼もしい実習生

白井さんは1年間の研修を経て、静岡県掛川市で株式会社「とわ」を設立します。最初から株式会社として独立することに迷いはありませんでした。「野菜くらぶは、独立支援プログラムの研修後就農する際、法人格を取得し株式会社として独立することを進めています」と、専務取締役の毛利嘉宏さんが説明します。「白井さんは野菜くらぶより150万円の支援を受け、自己資金の150万円を合わせて300万円の資本金で農業経営を始めました。株式会社であることは、銀行などにお金を借りる時の信用にもなります」。白井さんは農家出身ではないのでゼロからのスタートでした。土地を借り、機械や資材、肥料の購入、従業員の給料の支払いなど、初期投資のための資金が必要でした。「深川さんと出会うことがなかったら野菜くらぶを知りませんでした。独立支援があることも知らなかったし、農業に就くこともできなかったかもしれません」。白井さんはまったくの偶然の出会いから会社を設立し、独立を果たしたのです。2013年、30歳の時でした。

こうして自信満々に独立した白井さんですが、最初の3年間は、思い描いていた農業が何一つできず、目の前の作業をこなすだけで手一杯だったそうです。「作物は天候に左右されて思うように作れないし、経営の難しさや人を雇う大変さを知りました。自分は何もできないと思い知らされたのです」。それでも、余裕がないなりに周りを見渡していました。群馬県には、30年以上も前に志を同じくして有機野菜生産者グループを立ち上げた農家をはじめ50人、静岡県にも10人ほどの、野菜くらぶの仲間がいました。彼らの話を聞いたり仕事を見たりしていると、自分ができないだけで、努力すればできる可能性があるのでは、と思うようになります。売り上げ目標を持ち人員を増やし、綿密な作業計画を立て実行しているうちに、少しずついろいろな歯車がかみ合うようになりました。栽培面積を広げると、地域の農家から、もっと畑を使ってくれ、などと声をかけられるようにもなったのです。

独立して5年後ぐらいに、白井さんの農業に一つの転期がありました。それまで、従業員は日本人だけでしたが、外国から働くために来日している農業実習生を雇い入れるようにしたのです。「実習生は、カンボジア、ネパール、インドネシアの3か国から受け入れています。家族と離れて異国で暮らす彼らは、自国へ帰り、家を建てたり畑を広げたい、という目的があるので、自分に与えられた仕事にひたすら一生懸命に取り組みます」。白井さんはその働きぶりに助けられ、栽培するレタスの種類や畑の面積を順調にひろげてきました。「外国から来る実習生は,とにかくたくさん働きたいと思っています。仕事がないと怒られたりするんですよ」と笑います。「農業を続けていくには本当にたくさんの仕事があります。日本人の従業員には畑での作業だけではなく、運営や経営にも参加してほしいし、消費者と会って話したり、野菜くらぶと交流する機会を作っていきたいです」と、それぞれの役割分担を考える余裕も出てきました。

「最初の5年間ぐらいの記憶はなくて、悪い印象しか残っていません」と言いますが、その間の経験と努力の積み重ねによって、経営を安定させ、地域の信用を手に入れるまでに成長しました。「独立当初から大規模経営を目指し、深川さんや、同じ静岡県菊川市で『やさいの樹』を経営する塚本佳子さんの背中を追いかけてきました。いつか自分も、野菜くらぶの中でそういった存在になれたら、と思っています」と、白井さんの夢は続きます。

会社名「とわ」にこめた想い

株式会社 とわ
会社のマーク

レタス畑がある菊川市は遠州灘に面し、年間の平均気温が16度から17度と、静岡県の中でも温暖な地域です。冬でも野菜の露地栽培ができ、田んぼの稲刈りが終わった後の裏作として、レタス栽培が行われてきました。白井さんは、冬は主にレタス類とミニ白菜、初夏から夏にかけてキャベツ、ズッキーニ、オクラを栽培しています。「10年ぐらい前にここで農業を始めましたが、春が早く来るようになり、秋が遅くなったと実感しています。気候はこれからも変わっていくと思いますが、野菜くらぶと契約した品質のものを、契約した日に契約した量を届ける、という生産のベースは守っていきたいです」。白井さんには毎年の経験の積み重ねがあり、気候の変化に対応する技術を身に付けてきたという自信があります。

「けれど菊川市では、高齢となり農業をやめてしまう農家が多くなっています。自分たちもいつまでも若くいられるわけではありません。効率よく作業を回すために機械化を進めるなど、長く続けられる方法を考えています」。また、働く人が集まる魅力的な会社でありたいと、面積を増やし、新しい品種への挑戦などにも取り組んでいます。

そのため、白井さんはこの4年前より会社の経営指針書を作り始めました。毛利さんは、「会社を経営する経営者にとって、経営指針書を作成することは一番重要なことです」と言います。「経営指針の3本柱として、経営理念、経営方針、経営計画があります。経営理念を立てるうえで非常に大事なことが、創業時の想いに向き合うことです」

白井さんは、「自分は、『食べる当たり前を未来へつなぐ』、を経営理念として農業を営んでいます」と言います。「兄がアフガニスタンで亡くなった時、食と平和について考えました。食が豊かであれば争いごとは起こらないのではないかと。当たり前に食べ物があるということは、努力なしには成り立たないことも知らされました。食べ物がない生活を考えなくてもいいという幸せを、次の世代にもつないでいきたいのです」

会社名の『とわ』にこめた想いの一つは、永続的に食べ物を供給し続ける農業、という意味の永遠(とわ)。もう一つは、生産者と消費者が農産物をめぐり作る輪(わ)。「農家がおいしい食べ物を食べる人に届け、食べた人の喜びが農家に戻ってくる。それが作物を作る力になります。そんな輪を広げていきたいと思いました」。白井さんは、みんなが幸せに暮らせる平和を守れるような、豊かな食を作る農業を続けていきたいと思っています。


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